表現できるものの裏にある感覚
ライフスタイル
普段、高齢の方との会話の内容はカラダの不具合についてがほとんどです。
当然、仕事柄そういうことになるのでしょうが。
同年代で集まったとき、ふと我に返るとカラダの不具合について話すことが増えました。
歳のせい、と言われればそれまでですが、寝れば元通りの若かりし頃とは
仕事や家庭、社会での立ち位置も変わり、気付けばカラダのあっちこっちが
以前のようにいかなくなったと実感します。
これを“衰え”と言うのでしょう。
久々に会った友人の頭が薄くなっていたり
日焼け止めの存在を知らず、炎天下で走り回ってできたシミ
笑ってできる顔面の深いシワなど
歳を感じるものはたくさんあります。
これらは客観的な可視による衰えです。
客観は極めて正しいのですが
普段、“若く見える”や、“動きが早い”と周囲から言われます、という方がいます。
これには“実際よりも”とか“年齢よりも”という大事な言葉が省略されていて
言われた本人はそうは思っていないことがほとんどです。
可視化によって不安は減り欲求は満たされつつあります。
私の興味を引く科学です。
可視は不確かを確かにした表現です。
得体の知れなかったものが見えるようになったということです。
しかし、忘れてはいけないのは、その対角にある感覚です。
自身の衰えは、他人から指摘されるものではない以前とは違う感覚だし
私は周囲が言うほど元気ではない、というのも自分しか持ち得ない感覚です。
数字や言葉で表せるものは、増えたといっても実際のほんの一部で
つまり、表現された部分だけを刈り取っても、それは氷山の一角に過ぎず
見えていないところを見ようとしなければ確信に近づくことはできないと思っています。